日本最後のご飯は鰻

日本最後のご飯は鰻だった。鰻は好物で、Instagramには自分専用の鰻のためのハッシュタグもある。ただ、高いのでそんなに頻繁には食べられない。ハレの日に鰻を食べるのではなく、鰻を食べるとその日は自ずとハレの日となる、そんな食べ物である。

最後の最後の鰻は、成田山新勝寺の参道の鰻店だった。進と「お盆だから道が混んでいるかもしれない」とかなり早めに東京宅を出たが、さほど道は混んでなく時間に余裕があったので、空港に行く前に新勝寺にお参りし、鰻店へ行った。成田は鰻が名物であるから、成田空港に行く時に時間がある時は鰻店に行くことにしている。今回もそうした。奇遇にも「うなぎ祭」なるものを街全体でやっていた。購入金額でいくつかスタンプを貯めると、賞品に応募できるらしい。鰻店の後にコーヒーのために寄ったレトロ喫茶でスタンプが貯まったようで、トイレから戻った時に進が応募用紙に記入していた。進は「A賞」と書いていた。A賞は、航空券20万円分であった。

「これに当たればアメリカに来れるね」「うん」

わたしはもともと「進も一緒にアメリカに行こう」「来て」「来ない?」「来ませんか?」とわたしのアメリカ行きが本格的に決まる前から誘っていたのであるが、進は「俺には田んぼがある 田んぼは休めん」「やだよ どうして俺が」と頑なに拒んでいた。が、このところ、いつか行くことに対し心を許したような発言を時折する。航空券が当たって、しかしわたしにはそのことを言わないでサプライズで突如アメリカの家の前に現れるなんていうことをするかもしれない。そんな淡い期待というか妄想をしている。

成田山新勝寺参道の鰻は蒲焼き半尾だけにした。成田までの道中、叔母上88が深夜「進くんにチョコレートケーキ焼いてあげた」ものをわたしも食べていたので、さほど腹が減っていなかったからだ。さほど腹が減っていなかったはずなのに、うなぎは別腹だった。きちんと一尾にするべきだったと後悔した。「どこ産の鰻ですか」と進が聞いた。まさか「愛知の一色産です」だったりして、と思った。一度諏訪・岡谷の鰻店に行った時はまさかの愛知・一色産だったからだ。確かに一色産鰻は高級鰻として有名であるが、我々は一色のお隣の蒲郡に住居がある(蒲郡のいいところの一つは一色が隣町にあるということ。一色まですぐだ!)。岡谷で「愛知一色産鰻使用」の文字列を見た時は笑った。成田山新勝寺の店は結局台湾産を使用しているとのことであった。まあそれでもいいのだが、成田はじめ千葉北部から茨城県にかけてはかつては利根川や霞ヶ浦の恩恵を受けて鰻が生息していて鰻街道なるものも近くにあるはずだった。しかしもうそこでは天然鰻は捕れない。頭では分かっているはずだったがなんとなくの寂しさがあるのも否定はしない。産地偽装をしていないのは良い。一色で産地偽装が話題となっていたのも記憶に新しい。全国ニュースでも見た。

日本での最後から2番目の食事も鰻だった。

出発前夜の食事である。自宅で食べた。父氏91が出してくれた。叔母上88と3人で食べた。鰻丼だった。叔母上88はたくさん食べられないものだから、「明日の朝食べる」と言って半分残していた。叔母上88は今年2月4日だったか5日だったかの深夜3時にゴミ出しをしようとした際に玄関で転倒、額から大量出血をし、2階奥に寝室がある兄(ナリ父)に助けを求めに行き「お化けが入ってきたのかと思った」と言われすぐに応急処置後病院へ、しかし父氏91がパジャマから服に着替えている間に玄関の血溜まりをバケツに水を汲んで流していて、それを兄(ナリ父)に「今こんな大変な状態でそんなことしなくていいのが分からんのか」と大きく叱られながら、真冬の深夜、タクシーも救急車も呼ばず「大丈夫、歩ける」と言ってわたしの足で5分のところにある病院へ足もフラフラなものだから91と88の兄妹手を繋いで歩いて行き、翌朝レントゲンだかCTを撮ったところ、首の骨骨折、一同驚愕、直ちに入院生活が始まりリハビリ病院も含め5ヶ月入院、元気になってきた頃は食べ物の話ばかりしていて、「鰻が食べたい」を連呼していたのであった。叔母上88の好物も鰻である。

そんな叔母上88は偶然にもわたしの出国日と同じ日に白内障の手術日となった。共に新たな門出に向かうそんな夜の食事が鰻だったのだ。

半分食べ残した鰻は、今朝、レンジで温めてあげた後、進が早朝から家に来てくれて父氏91と延々と話をしていたものだから、居間ではなく元診察室の現叔母上の部屋で密かに食べていた。手術に向けて精力が付いただろうか?夜頃「無事手術終わり」の連絡が進と叔母上88のLINEグループに来た。

わたしもアメリカに向けて精力が付いただろうか。

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